映画『パッション(2004)』

初めてパッションをみたのは10年近く前になるか

当時は今以上に未熟で
みる
という事の本質を知らずに
この映画を
観て
いたように思う

これは所謂映画評論でもなければ
己の洞察力の鋭さや、
独自性の豊かさを
ひけらかす為でもない
(少なからずは、ある)

初見の感想はやはり、
『痛い』
敬虔なクリスチャンである監督の
意向は、
只々史実、伝記に忠実に
描こうという事だったのだろう。
故に
リアリティーを追求し
あの様な痛々しい
描写と相成ったようである

今更
あの物語が事実であったか
どうかを問うのは野暮である

また
当時世界では色々な意味で
物議を醸していたようだが
それもどうでも良い

何故ならば
あの手の宗教思想の強い話には
いつも『前提』が必要だからである
つまり
神の存在を信じているか否か

梟(自身)は半信半疑、
よりはロマンとして
少し信じてはいるが
基本スタンスとして
凡ゆる事象に対して
盲目的に信じるという事は
しないようにしている

なのでこの度
改めてパッションという映画をみた時
以前とは180°見方を変えてみる事が
出来た

映画とは観る人の感性で
様々な捉え方が出来る
パッションも観る人によって
様々な見方がされ得る
映画の一つであろう

梟の感想は
あの映画で描かれる
動向
つまり物語の描写自体には
あまり関心を得なかった

イエスが如何に不当な拷問を受け
人々の業を背負い神となったか
という大筋の展開よりも
そもそもこの映画の
主人公は別にある様に感じたのである

この映画の中の
イエスとは如何なる存在か??
それは
『人を写す絶対的な鏡』
であったように思う
このイエスと言う鏡は
当然『人』ではない

人ではないイエスの言葉は
いつも自身が
事象全てであるかの様な
語り口である

つまり彼自身は
『解脱』しているのである
最早言うべくも無い
この世の凡ゆる事象に
あれこれと思いを馳せる
人々の感情など
有って無い

嘗て
ソクラテスがそうであった様に
仏陀がそうであった様に
解脱した人々は
その、人という器にこそ
入ってはいても
自らその『有りよう』に気づくと
自身の位置付けを確りと
確立させるのである

それが
恒久不変(普遍)の鏡
なのである
では、
この鏡が写す主人公とは誰か?
それは当然、
『イエス以外の人々全てである』

イエスという鏡を前にした
移ろいゆく人々の様々な感情や特性
本質、欲望など
がありありと描かれる
その様こそ
その人間描写こそがあの映画の表現したいポイントなのではないかと
梟は感じたのである

個々の人々がイエスに対して
行っている行為は
イエスという鏡を通して
その人がそういった感情のもと
生きているのだという
一つ一つの証左なのである

イエスを虐げる人は
鏡に写る自分を虐げる人であり
イエスを庇う人は
鏡に写る自分を大切にしている人
なのである

人には心が存在する
心には感情が存在する
善や悪が存在する
人々はありと凡ゆる
感情、欲望に支配されながら
生きているのである
その具現があの蛇人なのであろう

自身はあの映画に
人々の本来の姿をみた

然し普通、人は鏡を見ても
そこに写るのは本人だと感じても
その鏡自体を考える事はない 
人の愚かさを暗に表現している様に
感じた

とはいえ、
絶望したくなければ改宗せよ
と捉えられなくもないし
あれ自体
監督の偏重的な
キリスト教テキストの様にも
感じなくはない

人々に対するステマ要素も
少なからずあるかもしれない

然しながら
パッションをみると
人をみる事ができる

あなたはあの映画から
如何様な感情を引き出すのか?

いやぁ、
素晴らしい映画だったなぁ

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