映画『バベル(2006)』


-慾望という哀しき性を、生まれながらにして植え付けられてしまった【人間】。その為に人々は多くの愚かな誤ちを犯し続けている。然し、そのパンドラの箱たる心の底には、確りと【愛情】を残しておいてくれてあるのだ。
孤独、苦しみ、憎しみに打ち勝てるのは、唯一、愛情しかないのだ。-


映画バベル。
恐らく今回が、4度目か5度目くらいの観賞になるだろうか。

一言で、この映画は本当に美しい。

美しい旋律の中、躍動的な俳優達の言葉に発しない演技の説得力。

旧約聖書の中の「バベルの塔」、
これは元々統一された言語を持った人々が、その貪欲さ故に神へと近づこうとした。
それが天までも届こうかというくらいの大きな塔の建立だった。
その底なしの慾望が神の怒りに触れ、人々は一つの言語を分かたれたのだと云う。
意思疎通を図れなくなった人々は神に届く事は叶わず、その貪欲さが、如何に自身を苦しめているか気付かなければならない。というお話しがこの映画の題材となっている。

役者陣の演技の素晴らしさは言わずもがなであるが、とかく、この映画の根底にあるテーマやはり【愛】である。

人間は実に哀れな生き物だ。

「悪い人間なんでしょ?」
「いえ、悪い人間ではないの。ただ愚かな事をしてしまっただけ」

梟的には劇中の一番の肝と思えるシーンの、子供と乳母の会話である。

この世の概念としての善と悪とに分けられるものは決して無いのではないかと思う時がある。
何故なら善も悪も単なる「言葉」だからだ。
言葉は実体を持たない。故に存在の有無は問えないのである。

然し、その行為が「喜ばしき事」か「愚かな事」かの違いは解る筈である。
そう、ほんの少しの好奇心からなる愚行なだけなのだ。

それが、劇中の
子供達による、子供らしい好奇心が招いた悲惨な事件であり、
家庭を顧みなかった男が、妻を失くし初めてその娘と向き合おうともがく様であり、
彼女の世界とこの世界の音は分断されたまま、無音の中で、言い知れぬ孤独感に苛まれ、愚かな好奇心さえも、その孤独を埋める事の出来ない苦しみであり、
一度現実から目を逸らした父は、自分の妻を失いかけ、愛する息子の純粋で優しい言葉に触れた時、初めて、自責の念から涙を流し、自身の愚かさに気付かされた成長であり、
そこには多くの【愚かな好奇心】が溢れているのである。

そして、その根幹はまさしく【慾望】に他ならないのである。

物語が終盤へ近づくと、それぞれの親子同士の抱擁や、愛情の再確認の描写が連続してある。
そして、感動のラスト。

人々がその貪欲さにより、建てられたバベルの塔ならぬ高層マンションのベランダで、言葉も、何も無い、ハダカの心を抱き締めているモノ。
この混沌とした世界で、バベルの塔をどれだけ高くしようとも、一番尊く価値があるモノ。

つまり【愛】である。

この映画は現代版バベルの塔として描かれている。
そして梟はこの映画が、とてもとても好きである。
それは頭で様々な事を考える事が出来ても、自身の孤独さは決して拭う事が出来ない事を思い知らされるからである。
つくづく、人は愛無しでは生きていけない…いや、生きる活力を得られないのだと感じた。

この映画をみて、
自身の愛のルーツを探ってみるのも良いかも知れない。

And only love can conquer hate...

いやぁ、本当に素晴らしい映画だったなぁ。

0コメント

  • 1000 / 1000