映画『冷たい熱帯魚(2010)』

-色鮮やかで、快活で派手な魚は、
とかく見るものの興味を惹く
この魚はなんて美しいのだろうと。
然し、
綺麗な魚ほど強い毒を持っているものである。-


今回は園子温監督作品の冷たい熱帯魚について。
これも4度目くらいの鑑賞になると思う。
〈鬼才〉と呼ばれるだけあって、彼の作品の撮り方は確かに奇抜で面白い。

然し、鬼才などと呼ばれてしまったが為に、いたずらに奇をてらう事を意識し過ぎた作品作りをせざるを得なくなってしまう事も鬼才の宿命である。

彼のセンスや独創性は確かに疑うべくもないが、そもそもアイディアというものは、既成の手法ありきで導き出される筈である。
0から1は生まれ得ないし、いや正確には0も0という形を持つ時点で0-無-ではないのだが…脱線。
ともかくセンスとは、あくまで「既成品の捻り方の上手さ」であると梟は考える。
つまり、どんな発想も、既成品やその世界に於ける同一のルールや、言語に依らねば考えられないのである。
故に、それをオリジナリティだと諸手を挙げて賛成する事は出来ない。

物語というものは本来、起承転結という辻褄合わせに終始する。
然し中には、その既成ルールをぶっ壊そうと張り切る表現者も居るわけだ。
それこそが当人の独自性であり、味であり、好みだからである。
然し、ルールを壊すという行為自体も一つの手法であり、立派な辻褄合わせなのである。
故に、奇抜な発想というのは、それだけで独創性に於ける「勝者」などにはならないのである。
端的に、異質であれば良いわけではない。
その為、園子温の作品は3本くらいはみた事はあるが、ここ最近の作品はみていないし、恐らく今後、自発的にみる事も無いかもしれない。
何故なら、園子温という名前が一気にメジャーになってからの彼の作品は、より顕著に、派手さ、奇抜さ、エンターテインメント性を重視する傾向にあるように感じるからだ。
いや、映画とはそもそもそういうものなのだが、自身は、質より量の映画はあまり好きでは無い。
単に好みの問題故、彼の未見の作品を批評する訳にはいかないが。

然し乍ら、この「冷たい熱帯魚」に関してはやはり園子温という監督の手腕をまざまざと見せ付けられる。
とりわけこの作品の、あるシーンの描写に関しては秀逸と言わざるを得ない。

この映画には幾つかの、
話題性を孕む要素がある。

かの有名な「埼玉愛犬家連続殺人事件」がベースとなって作られている点
や、スプラッター映画並の残虐描写、卑近で官能的な性描写、そして村田演じるでんでんの恐るべき演技力。
彼の力無くしては駄作になりかねない程、この部分は重要な要素である。

ストーリーに関しては、
確かに有名な事件を題材にしているだけで話題性はある。
然し実話モノは弱点もある。
それはノンフィクションであるが故の〈オチ〉の無さである。
実話を基にしている為、大筋が有って、そこにオリジナル要素を付加しているのだと思うが、現実の世界に於いてオチなどというものは無い。
物語だからこそ綺麗に纏まったオチを付けられるだけで、現実は続いていくからである。
つまり、実話の流れで進めていき乍ら、オリジナルのオチに繋げていかなければならない。
この点については、多くのレビューを見てみてもやはり皆不服の感があるようだ。

主人公社本扮する吹越満。
彼が最後あの様な行動に至った経緯は、各自の台詞や、社本という男の人となりを考えて行けば如何様にも説明は出来るが、やはり、あの事件を題材にした物語のオチがああなるという事の必然性には自身も疑問を感じる。
この、疑問というより、違和感というのは、
事実を題材にした村田一家のリアル描写と、それに対する社本一家のオリジナル描写との釣り合いの薄さにあるような気がする。

村田一家の動向には、必然性と一貫性が確りとある。それはやはり現実に存在した人間を参考にしているから描き易いかも知れない。
然し社本一家に関しては、今一纏まりが無い。実際に村田のモデルとなった人物の近くにああいった一家が居たかどうかは定かでは無いが、どうも村田一家を引き立てる当て馬感が否め無い。
それならそれで、何故終盤をあの様な形にしていったのか。

「人生とは痛い」
というメッセージを娘に伝える事が、親としての最後の教育ならば、社本の今迄の行動の矛盾により、余りに説得力がない。現に娘は一切変わっていない。

人間とは潜在的に残虐性を持ち合わせているものだという意図があるならば、社本という、普段は大人しく不器用な人間でも残酷な人間になり得る資質があるのだという事で納得はいく。
が、下手に教育という堅いテーマを持たせようとしたならば、それは失敗と言わざるを得ない。

村田の持つあの残虐性というものが、どの様にして形成されていったかは物語の台詞の中から伺い知れるが、
例えば、子とは親から受ける教育如何でどんな性質にもなり得るというメッセージがあったとしても、あの映画で伝えるべきところは元来人間が持つ『残虐性』を知らしめる事のみに終始すべきだったのではないだろうか。

それこそが、前述した秀逸なシーンたる、村田がある人物を殺害する場面に
初めて社本を立ち会わせたあの描写である。

正直、他のシーンが多少無理のある展開であっても、あのシーンがあるだけで、本作は良作と呼べるくらい素晴らしいと感じた。

普段は明るく、気の良いオヤジっぷりを見せていたあの男が、超加速度的に本性を剥き出しにしてゆくあの村田の説得力と迫力は、そんじょそこらのド派手なアクション映画のワンシーンですら安っぽく見えてしまう。

何より、映画という現実から離れたスクリーンの中で起きている完全フィクションとはっきり自覚していながら、観る側にリアルな恐怖心を抱かせてしまうというこの監督の力量は凄まじい。
梟も、このシーンは何度見ても、やはり怖い。笑

この恐怖心を何故我々は感じてしまうのか。
それはきっとこの平和な時代に、きちんと親の教育を受け、友人、恋人といった人間関係をそれなりに形成してきたからであろう。
つまり、そんな平和で真っ当な人間には、この村田の毒皿っぷりが理解出来ないのである。
「この人物は、何故平然とこんな怖い事をやってのけるのだろう」という、自認し難い事柄に狼狽しているのだと思う。
然し、どんな残虐な人間も自分と同じ人間なのである。
我々も、きっかけさえあれば、社本の様に覚醒してしまう可能性も孕んでいるかもしれない。

残虐性という性質には、そもそも善悪の定義や倫理観、理屈が通用しないというリアリティがある。

そのリアリティを今日の我々現代人に目の当たりにさせる事で、我々を憮然とさせ、また自覚的に生きる事への一つの指針となる事が監督の一つの狙いだったとすれば、やはりこの映画は素晴らしい作品だと言える。
と、これはあまりにも過大解釈すぎるが。

まぁ、それにしても
素晴らしい映画だったなぁ(長すぎるから急に落としてやります笑)。

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